Biography


略歴

ヘルベルト・フォン・カラヤン - Herbert von Karajan(1908〜1989)

ヘルベルト・フォン・カラヤン

1908年4月5日、外科医の父エルンストと母マルタの次男として、モーツァルトの故郷オーストリアのザルツブルグに生まれる。生年時の本名はヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン。
3歳のときピアノを習い始め、4歳半で公開演奏するなど、一時は神童として騒がれたこともあった。
7歳からモーツァルテウム音楽院で音楽全般の教育を受け、18歳のとき現実的な将来のため、ウィーン工科大学に入学するがすぐに退学、同時に入学したウィーン音楽アカデミーで本格的なピアノの研鑽を積む。このとき指導教師より指揮者への道を示唆され、転向。
卒業後、ウルム市立歌劇場の指揮者として迎えられ、活動を開始する。

1935年、アーヘン市の音楽総監督に就任、このとき27歳。ドイツでもっとも若い音楽総監督の地位を手にするが、就任の条件としてナチス党に入党したことが、生涯に渡って非難の対象となった。
アーヘン市立歌劇場の他にベルリン国立歌劇場、及び外国への客演指揮等で精力的に活動、政治的な理由によりフルトヴェングラーのライヴァルとして仕立てあげられたこともあった。

終戦後は連合国側により、一時活動を禁止されるが、EMIのプロデューサ、ウォルター・レッグに出会い、非公開活動として、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と集中的な録音を開始する。
1948年、レッグが創設したイギリスのフィルハーモニア管弦楽団を指揮、以降このオーケストラへの教育に力を尽くし、多数の録音を行いながら、世界有数の管弦楽団に育てあげる。
この頃はフルトヴェングラーとの軋轢により、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、及びザルツブルグ音楽祭等から閉め出されており、フィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、ミラノ・スカラ座との活動がつづいた。

1955年、前年に急逝したフルトヴェングラーの代役としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のアメリカ・ツアーに同行、そのまま同オーケストラの4代目芸術監督・常任指揮者に就任、契約は終身という破天荒なものであった。
以降30年以上ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮、また1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任(1964年まで)、他にミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門監督(名目上のみで実際は総監督)、フィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団の指揮、ウィーン楽友協会合唱団の終身芸術監督、ザルツブルグ音楽祭の事実上の監督等により、この頃から「帝王」と呼ばれるようになる。

1967年、ワグナー・オペラの理想的な上演環境を望み、ザルツブルグ復活祭音楽祭を創設、80年以上演奏会のみに活動してきたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めてオーケストラ・ピットに入れる。
1973年には、ザルツブルグ聖霊降誕祭音楽祭創設。
60年代から80年代初頭まで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との世界中への演奏旅行と猛烈な勢いのレコーディングがつづく。これが自身にとってもオーケストラにとっても、まさに黄金期であった。
また1969年から71年までは、パリ管弦楽団の芸術監督も務めた。

1982年、クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団を巡るトラブルをきっかけとして、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との関係が悪化、1989年4月23日のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との生涯最後の演奏会の翌日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督・常任指揮者を辞任。
こののちはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との活動に一本化されると目されていたその矢先の同年7月16日、ザルツブルグ郊外アニフの自宅にて、急性心不全のため死去。81歳。
この年は昭和天皇の崩御、天安門事件、共産主義国家の解体、ベルリンの壁崩壊等、歴史的事件が相次いだ。

カラヤンは先端技術に生涯に渡って強い関心を持ちつづけ、音楽のレコードによる浸透を信じ、恐らく将来も破られることのない記録的な数の録音を残したほか、映像作品に関しては先駆者としての活動をつづけた。
レコード芸術としては、その録音歴がそのまま録音技術発展の歴史と重なっており、同一曲の複数回の録音をその特徴として挙げることが出来る。

50年代後半からの強烈なスター性のため忘れられがちだが、本来カラヤンは歌劇場叩きあげの技術・経験に裏打ちされた職人指揮者であった。
また若い演奏家・指揮者へのキャリア形成に尽力した事実も見過ごせず、小沢征爾やアンネ=ゾフィー・ムターをはじめとする多くの若手の教育に時間を費やし、その壮年期・晩年・死後に活躍する多数の音楽家たちの活動歴に、何らかのかたちで関わっていた。
肉体的には相次ぐ病に倒れながらも、晩年の脚や腰への障害をおしての指揮など、ときには痛々しいながら、強烈な意思の力を見せつける活躍もあった。

20世紀を代表する指揮者は幾人もいるが、先端技術への強い関心とレコードをはじめとしたメディアの徹底利用、ヨーロッパの主要な音楽ポストの掌握、世界中を巡る演奏旅行、歴史的には2度の世界大戦の体験や第三帝国との関係等、カラヤンこそ明暗ともに20世紀を象徴する指揮者・人物であったといえるだろう。

写真は《ニーベルングの指環》録音時のスナップとされ、自身が写された写真のなかで、カラヤンがもっとも気に入っていたといわれるもの。

なお、自宅近くのアニフ教会にあるカラヤンの墓には、故人の生前の意思に従い、

永い闘病と苦悩の末に

という言葉が記されている。


(いずれ詳細な年表をこのあとに追加するつもりです)