| No.301 | 投稿日時: | 2001/12/19(水) 19:36 <親記事> |
| 投稿者: | あむろ |
こんばんは。
そういえば,レコ芸12月号で,若手評論家のホープ(?????)松沢憲 氏が月評に登場して,アンチカラヤン派(ポリーニも)を表明しましたね。
今時あんなステレオタイプというか,程度の低いカラヤンの批判をするなんて怒る気にもなりませんが,レコ芸という権威ある雑誌にあんな批評を書くなんぞ嘆かわしい限りです。
せめて僚友の安田氏くらい屁理屈をこねられるのならましですが。
話は変わりますが,71年のチャイコフスキーの4番のセラフィム盤(TOCE1506)Yahoo!オークションに800円で出品されてますね。c10292971(12/24まで)。私は基本的に中古は買わないので興味ないですけど。
| No.302 | 投稿日時: | 2001/12/19(水) 20:24 <↑親記事:No.301> |
| 投稿者: | Concolor <E-Mail> |
今晩は。
評論家がレコ芸12月号でアンチ・カラヤンをやっているのですか。
私はレコ芸は毎年1月号のみ購入し(付属のレコード・イヤーブックが欲しいので)他の時は立ち読みもしないので知りませんでした。
カラヤンを嫌いな人も当然いるでしょうから何を言っても構わないと思います。ただ誹謗中傷の類でしか評論できないのだとすると音楽評論家の存在理由すらないように思うのですが。
私のカラヤン愛好家の口癖ですが「誰がなんと言おうと」だと思います。
では、また。
| No.303 | 投稿日時: | 2001/12/19(水) 21:33 <↑親記事:No.302> |
| 投稿者: | あむろ |
こんばんは。
まあ誹謗中傷とは到底言えない内容ですけどね。
再発の第九,メンデルスゾーン,シューマン《春》(いずれもDGオリジナルス)の月評です。
「ここに人間の根元的な響きを聴くことは不可能だ。アダージョも表面的で彫りが浅い。」(第九)
「メンデルスゾーンの音楽の健康的な明朗さや鬱然とした物思いをここに聴くことは,私にはできない。デュナーミクの表現も極めて表現的で人工的な印象が強い」(メンデルスゾーン)
「彼のベートーヴェンと同じく力ずくに終始して皮相な響きにしらける。」(《春》)
といった内容です。
ちなみにポリーニの方は,
「表現としては単調で彫りが浅いし,響きも外面的。刺激的なフォルティッシモや消え入るようなピアニシモに根拠を感じないのである。デュナーミクの変化も人工的だ。私には晩年のベートーヴェンの澄んだ精神美をこの演奏に聴くことができない。」
「ヴェーベルンは・・・この作品の繊細な一面は犠牲にされてしまった。外面的な音に終始するのも気になる。」
批評というより感想文ですね。何様のつもりだって感じです。好き勝手に書くのはいいですけど,レコ芸の月評ですからね。自分のホームページに書くのとは訳が違うと思うのですが。
感じ方は人それぞれだということが分かってないのでしょう。
アバドの新しいベートーヴェンもボロクソに書かれてました。
| No.304 | 投稿日時: | 2001/12/19(水) 21:49 <↑親記事:No.303> |
| 投稿者: | Concolor <E-Mail> |
今晩は。
書いて下さり有難うございます。
> 批評というより感想文ですね。何様のつもりだって感じです。
凄い感想文というところでしょうか。
> 感じ方は人それぞれだということが分かってないのでしょう。
相手の好みを重んじる気持ちに欠けているようですね。
評論家って何なんでしょうね。
では、また。
| No.305 | 投稿日時: | 2001/12/19(水) 23:37 <↑親記事:No.304> |
| 投稿者: | K <E-Mail> |
こんばんは、
いまどきアンチ・カラヤンなんていう人がいるのですか(w。
私は批評の類は一切読みませんし、『レコード芸術』も1度も買ったことはありませんが、基本的にどのような分野であれ、批評というのは左よりの発言(批判)をしないと成立しません。
右よりの発言をして強い説得力を持たせるというのは至難で、安易にこの道を進もうとする者は必ず避けて通ります。
カラヤンという人の危うさは、音源がいまでもそこそこの売り上げを期待出来るにも関わらず、熱狂的な信奉者はあまり目立たないというところにありますが、それにしてもいまでも批判(それが正当な理論による説得力を持っているかどうかは別として)が出るというのは、カラヤンの影響力がいまだに楽壇では衰えていない証拠です。
『The Art of Conducting』というドキュメンタリ映像のなかで、ジョン・エリオット・ガーディナーがカラヤンのことを「悪魔的」と言って強く否定していて、これを観たとき私は大喜びしました。
本当に忘れ去られてしまったら批判も出ないわけで、私はカラヤンの長寿のため、批判がもっと出つづけて欲しいと心から思っています。
しかし世のなかの全てがアンチ・カラヤンになれば、今度はカラヤン肯定派が必ず出てきます。
これは現在のアンチ・カラヤンの発生と根を同じくしており、むしろより危険といえます。
| No.306 | 投稿日時: | 2001/12/20(木) 01:05 <↑親記事:No.304> |
| 投稿者: | papy <E-Mail> |
私が理想とする音楽批評家とは、客観的に物事を分析し、その長所と短所を明確に整理して解説することができ、褒めるべきところは褒め、批判すべきところは批判するという、バランス感覚のある人だと思っています。
一方的に自分の好みを述べるだけであれば、それは評論家とは言えません。単なる音楽愛好家の域を出ていないと思います。果たさねばならないはずのレコード文化の発展に全く寄与していないと思います。学問の世界においては、通説とされる学説に対し、独自の見解を述べる場合、通説の長所とそれに対する短所をきちんと整理した上で、自分の意見を述べます。音楽も人文社会科学の分野に属するものであり、評論家と称する先生方も、もう少し学術的な理論構成でもって音楽批評を展開して欲しいものです。本来、レコ芸誌の先生方に与えられた使命というのは、レコードが貴重品であった時代に、消費者がレコードを購入する際の参考になればという社会的要請があったはずです。新譜CDは今でも高価であり、手当たり次第に購入できるものではありません。CDを選ぶ上で、どのような読者が読んでも参考になるような公平な批評を書いて欲しいものです。